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野口宇宙飛行士訓練レポート 第14回
「巨星墜つ 宇宙飛行士第一期生「オリジナル・セブン」のゴードンクーパー氏 死去」

最終更新日:2004年11月8日

10月4日に、元宇宙飛行士のゴードン・クーパー氏が逝去されました。享年77歳でした。今月の訓練レポートはクーパー氏の足跡、そして追悼式典の様子をお伝えします。

オリジナル・セブン:宇宙飛行士が真のヒーローであった時代

写真
ゴードン・クーパー氏
(写真提供:NASA)

ゴードン・クーパー氏は、アメリカが初めての有人宇宙計画、マーキュリー計画のために選抜した宇宙飛行士一期生のメンバーです。後に「オリジナル・セブン」と呼ばれる7名は、ディーク・スレイトン、アラン・シェパード、ガス・グリソム、ジョン・グレン、スコット・カーペンター、ウォーリー・シーラ、そしてゴードン・クーパー。クーパー氏は7名の中では最年少でした。

オリジナル・セブンが選抜された1959年は、米ソ冷戦の真っ只中。スプートニックに先を越されたアメリカが威信をかけて臨んだマーキュリー計画の、まさに表看板であったわけです。宇宙開発の黎明期であり、テストパイロット達が危険を顧みず未知の技術に果敢に挑戦していった時代、宇宙飛行士が真のヒーロー、そして真のExplorer(探検者)だった時代であったといえるでしょう。クーパー氏の死去で、オリジナル・セブンのうち御存命なのは3名になりました(シーラ、グレン、カーペンター)。

皆さんは、人類初の音速飛行からスプートニックショック、そしてマーキュリー計画の成功を描いた映画「ライトスタッフ」をご覧になったことがありますか? 私はあの映画が大好きで高校生以来何度も見ていますが、ラストシーンでマーキュリー"Faith 7"号に乗って飛んでいくのがクーパー氏です。このフライトはマーキュリー計画の最後のフライト、そして単独での有人宇宙飛行の最後(ジェミニ計画は二人乗り、アポロ計画は三人乗り)でもありました。 映画ではクーパー氏は打ち上げ前に宇宙船の座席で居眠りをしてしまう、憎めない人物として描かれてますが、実際のところ彼は「ねっからのヒコーキ野郎」で、Hot-Dogという異名を取った陽気で破天荒なパイロットだったようです(ライトスタッフの中でもそういうシーンがいっぱい出てきますね)。古き良き時代のパイロット魂を大事にしていたのでしょうか。先に紹介した1963年のFaith 7号でのフライトでは、マーキュリー計画中最長となった34時間を越える飛行時間中に、初めて宇宙で「睡眠した」宇宙飛行士となりました。 1965年のGemini 5号では191時間の飛行で、これまた当時の最長宇宙飛行記録となり、初めて2度の宇宙飛行を経験した宇宙飛行士となっています。1970年にNASAを引退した後も飛行への熱は衰えず、飛行機の設計や試験に積極的に関わり続けました。70歳を過ぎてなお、「月に3回は飛ばないと調子が悪いんだ」とのコメントを残しているほどです。そしてフロリダでアストロノート奨学基金の設立に尽力し、宇宙工学を志す子供達への援助を続けていました。

また彼は、政府ではない、民間主導の宇宙開発の重要性を訴えた人でした。2年前にはこんな発言もしています。

「航空機は政府のお金で発展したのではない。民間人が賞金目当てで飛行に挑戦する中で発展してきたのだ。宇宙開発にも同じような動機付けが必要だ。」

彼が亡くなった日に、初の民間企業による有人宇宙飛行:スペースシップ・ワンが成功したのは本当に不思議な巡り合わせです。彼の遺志が次世代の有人宇宙飛行に受け継がれたと言えるのかも知れません。

ヒューストンでの追悼式典とフライ・バイ

ゴードン・クーパー氏の追悼式典は、10月15日に当地、ジョンソン宇宙センターで行われました。式典でのハイライトは、ホールでの式典の後に屋外で行われるT-38ジェット機による編隊飛行(フライ・バイ)です。これはパイロット仲間の冥福を祈る特別な飛行で、式典会場を超低空で4機編隊のジェット機が通過し、通過する瞬間に1機だけが上空に向かって急上昇していくものです。いわば、故人の魂が空に召されていくのを皆で見守る、ということでしょうか。

写真: クリックするとデジタルアーカイブへ
T-38ジェット機による編隊飛行(フライ・バイ)
(写真提供:NASA)

今回、その編隊飛行に若田宇宙飛行士と私が参加しました。普段から乗りなれているT-38ジェット機とは言え、4機での編隊飛行はあまり経験が無い上に地上スレスレでの飛行、さらに式典の進行状況に合せてタイミングよく通過しないといけないので、準備には非常に神経を使いました。当日は予備機も合せて5機のT-38の乗組員が本番の2時間前から詳細な最終打ち合わせを行い、式典会場から約10km離れた空域で周回飛行で待機しました。いざ出番!との連絡が地上から入ると、4機編隊が会場目指して地上500フィート(150m)、速度300ノット(時速580km!)で一糸乱れず飛行していきます。通常の訓練飛行にはない、ビルの屋上をかすめるようなスピード感と数mの位置でぴったり張り付く僚機の存在感で、全身にアドレナリンがかけめぐります。 地表の景色はものすごい速度で後ろに去っていくのに、4機のT-38ジェット機はぴったり張り付いて静かに進んでいきます。動と静の微妙な均衡の中、式典会場の上空を通り過ぎるとき、ピンで固定されていたかのように正確に飛んでいたうちの1機が、音も無く上空に上っていきました。あたかも空から見えない手が現れて掬い上げたように。その瞬間、私の頭の中に浮かんだのは、宮崎駿さんの映画「紅の豚」で主人公が見る幻影、空中戦で散っていった戦友達が雲の中に召されていくシーンでした。重要な任務中に不謹慎な、と怒られそうですが、何百分の一秒間、私の視界にあの映画のシーンがだぶって見えました。

日本人宇宙飛行士がふたりもフライ・バイを勤めることになったのは非常に光栄なことでした。

彼がFaith7で初飛行した年に生まれた若田宇宙飛行士と2度目のGemini5で飛行した年に生まれた私が、最後の"フライト"のお手伝いをしたことを、天国のクーパー氏は喜んでくれているでしょうか。

1957年10月4日 旧ソ連 人類初の人工衛星、スプートニック打ち上げ成功
2004年10月4日 ゴードン・クーパー氏 死去
2004年10月4日 スペースシップ・ワン民間初の有人宇宙飛行成功、Xプライズ賞金獲得

2004年10月 Houstonにて

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